
ところで
オッサンはトリトリデッキ建設(けんせつ)のキッカケでありまして・・・ トリトリデッキは野鳥以外(やちょう・いがい)のイノーの生物観察(せいぶつ・かんさつ)のキッカケでもあります。

オッサンにとって、トリトリデッキが建設(けんせつ)されるまえからココに来(く)るキッカケとなったのは、北中(きたちゅう)のそばで居候(いそうろう)させてもらったこと。

そのワケは、最初(さいしょ)に島(しま)で借(か)りようとしていた家(いえ)の大家(おおや)さんが、移住(いじゅう)のタイミングで火事(かじ)に遭(あ)われ、急(きゅう)きょ借りられなくなったため。

で、移住するまえ・・ いつしかオッサンは夏休(なついやす)みに島へ来(く)るようになり、イノーを眺(なが)めていたのですけれど、そのキッカケは南大東島(みなみだいとうじま)でした。
そこで出逢(であ)ったのが、あのトンボ好(ず)きで自(みずか)らもゴクラクトンボであるオカチャンです。

そもそも、南大東島でわざわざルアー釣(づ)りするようになったキッカケは、大阪(おおさか)でパソコンのデザインをしてたころ・・ 連休(れんきゅう)に四万十川(しまんとがわ)で野営(やえい)していたとき、起(お)き抜(ぬ)けにルアーをキャストしたら、ドッヂボールがマルッと入(はい)るくらいデカい口(くち)のスズキが食(く)らいついてしまい・・ あまりのデカさのため、コントロールするどころかまったく相手(あいて)にされず、勝手(かって)に泳(およ)ぎ去(さ)られてしまったのでした。

それ以上(いじょう)の魚(さかな)を釣(つ)るまでは、大好(だいす)きな清酒(せいしゅ)は飲(の)まんぞ


その後(ご)、ナンヤカヤで横浜(よこはま)へ転属(てんぞく)となり、伊豆大島(いずおおしま)の荒磯でヒラスズキを釣ってやろうと訪(おとず)れた初日(しょにち)のこと、大波(おおなみ)でドッサバッサの磯(いそ)でモーレツな引(ひ)きとともに水揚(みずあ)げしたのは、4キロのタマン(ハマフエフキ)でした。
伊豆大島では、ヒラスズキのほか、カンパチ、ハマチなども狙(ねら)うようになり・・ 青物(あおもの)よりさらに強力(きょうりょく)なカマジ(ロウニンアジ)を釣ってみたくなった挙句(あげく)、南国(なんごく)の島≒南大東島で釣ることにしたワケでした。 南大東は連休(れんきゅう)になっても旅行客(りょこうきゃく)がほとんどおらず、荒磯に誰(だれ)もいないので、ほとんど釣り放題(ほうだい)だったんです。
ただ、昼間(ひるま)はほとんど釣れず、もともと野鳥観察をしたかったので、高木博士(たかぎはかせ)の研究(けんきゅう)チームに同行(どうこう)させてもらったりして、本格的(ほんかくてき)な野鳥のアレコレを教(おそ)わっていった・・ のでした。 ちなみに、高木博士はルアー釣りの名手(めいしゅ)でもありまして。
話(はなし)はもどり
もともと父(ちち)が釣りを嗜(たしな)んでいたのですけれど、ほとんどフナ釣りくらいしかしませんでした。 ルアー釣りをするキッカケは、小学(しょうがく)のころ見(み)かけた、あのツリキチサンペーでした。 けれど、近所(きんじょ)にブラックバスやイトウなんていませんから、最初(さいしょ)から海(うみ)でしたが・・・
中学高校(ちゅうがく・こうこう)とあまりルアー釣りはせぬまま・・ 芸大(げーだい)のとき自炊(じすい)を始(はじ)めると、タンパク源(げん)を得(え)ようと学内(がくない)の湖(みずうみ)でブラックバスを釣ってムニエルや照(て)り焼(や)きでいただいたりして・・ 平成元年(へいせん・がんねん)、パナソニックへ入社(にゅうしゃ)して稼(かせ)げるようになってから、当時(とうじ)ハヤリだしたシーバス・フィッシングを本格的(ほんかくてき)に始めたのでした。

大阪(おおさか)でパナソニックに入(はい)り、数年(すうねん)して横浜(よこはま)へ転属したら、阪神淡路大震災(はんしんあわじ・だいしんさい)、横浜から島へ移住したら東日本大震(ひがしにほんだいしんさい)が起(お)こりまして・・ くわばらクワバラでした。
そ〜ゆ〜顛末(てんまつ)がありまして、トリトリデッキができてしまったワケでして。(笑)