松下電工(まつした・でんこう)TE-3426は、コンセントから給電(きゅうでん)するカワリダネでした。
半世紀(はんせいき)まえの製品(せいひん)です。 でも、若者(わかもの)たちには、その価値(かち)がゼンゼン理解(りかい)できないらしく、ただのボロ時計(ぼろ・どけい)だから捨てようという。 けれど、昭和40年代(しょうわ・よんじゅう・ねんだい)の製品(せいひん)は、ぶっちゃけ火焔土器(かえんどき)などよりも、よほど優(すぐ)れた手作業(て・さぎょう)から産(う)みだされていることを、知(し)らない。
プラスチックでできてるから、機械(きかい)があればダレでも製造(せいぞう)できると思(おも)ったら大間違(おおまちが)いのコンコンチキ。
図面(ずめん)だって手描(てが)きだし、それを見(み)ながらプラスチックの金型(かながた)の職人(しょくにん)さんが、工作機械(こうさく・きかい)を操作(そうさ)して、仕上(しあ)げは手加工(てかこう)。 それを寸分(すんぶん)たがわず複数(ふくすう)こさえたり。 できた部品(ぶひん)やそのほかの構成(こうせい)部品は、組(く)み立(た)てに熟練(じゅくれん)したオバチャンが作業(さぎょう)しながら、さらに素早(すばや)く組み立てるために治具(じぐ)をこさえて工夫(くふう)し、機械より速(はや)く正確(せいかく)に完成(かんせい)させたりしたもの。
火焔土器は、量産(りょうさん)しないから正確(せいかく)でもないし、納期(のうき)も生産性(せいさんせい)もド〜デモイ〜けれど・・ 熟練(じゅくれん)とか勘(かん)に支(ささ)えられていたころの製品は、造(つく)りはチープに見(み)えても、効率的(こうりつてき)で量産された工芸品(こうげいひん)のような存在(そんざい)。 日本(にっぽん)の工業力(こうぎょうりょく)の源泉(げんせん)が、単純(たんじゅん)な設備(せつび)の性能(せいのう)だよりでなかったことを教(おし)えてくれる製品は、もう残(のこ)り少(すく)ない。
だからこそ
自動(じどう)の装置(そうち)ばかりに投資(とうし)する、当時(とうじ)の先進国(せんしんこく)とは異(こと)なる、桁ハズレ(けた・はずれ)な成長(せいちょう)ができたワケです。
無論(むろん)
そうした歴史(れきし)があったから、デジタルで制御(せいぎょ)される精密(せいみつ)な工作機械においても、わが国(くに)が圧倒的(あっとうてき)なシェアなのです。
その程度(ていど)のことも知(し)らぬまま・・ 石器(せっき)だの土器だのボンコツ製品だのと、どこかで習(なら)った狭(きょう)あいな教科書(きょうかしょ)の情報(じょうほう)で「ものづくり」を知(し)ったつもりにならないでいただきたい・・ もんだなぁと。
たかだか古(ふる)いだけが歴史(れきし)ではなく、人類(じんるい)の転換点(てんかん・てん)にある品(しな)を残(のこ)すのが博物館(はくぶつかん)の役割(やくわり)だと思(おも)うし。
どうも、日本(にっぽん)の考古(こうこ)は、年代(ねんだい)の数値(すうち)にとらわれた、スカラー量(すからー・りょう)ばかりを気(き)にし、なぜその時代(じだい)に土器の形(かたち)が変(か)わったのか・・ といったベクトルを気にしなさすぎる嫌(きら)いがあるような。
ま゛〜 数値(すうち)なら、ダレでもチャチャッと比較(ひかく)できるのはわかるけれど・・・
新(あたら)しきを知ってから、古きを知る必要(ひつよう)も、ありゃしないでしょうか?

