今月(こんげつ)のシリーズ天城遺産(しりーず・あまぎいさん)は、松原銅山(まつばらどうざん)。

どえらげなぃ、難産(なんざん)だったんですよね゛〜。

松原銅山についての情報(じょうほう)が断片的(だんぺんてき)なうえ、鉱山(こうざん)について意外(いがい)なほど基礎的(きそてき)な説明事項(せつめいじこう)が多(おお)かったんです。 そもそも、マツバラコウザンと呼(よ)ばれてい、当時(とうじ)はだれもマツバラドウザンとは呼んでなかったらしい。
ほか
どうもグッシーは大正時代(たいじょう・じだい)も江戸(えど)時代と変(か)わらず貧(まず)しかったなんて書(か)くと、シマッチュに悪(わる)い心象(しんしょう)をあたえる・・ と削除(さくじょ)するクセがあって、そのあたりもオッサンのストレスだったり。

オッサンとしては、むしろシマッチュはサバイバーだったのだと誇(ほこ)るレベルなんじゃないか・・ と思(おも)うのですけれど。 太平洋戦争(たいへいようせんそう)になるまで、鹿児島県(かごしまけん)から見放(みはな)されていたことや、もしかすると併合(へいごう)した朝鮮(ちょうせん)より貧しい生活(せいかつ)をしていたかもしれない・・ のは、知(し)っておくべき背景(はいけい)だと思う。
もしかすると、本論(ほんろん)をわかりにくくするかもしれないけれど、そういった背景をスルーしてしまうのは、オッサンはどうもダメなんですよね。 生活観(せいかつかん)のない歴史(れきし)など空論(くうろん)だと思いますし、それが歴史の教育(きょういく)を味気(あじけ)ない詰込(つめこ)みにしてしまったんだと思いますよ。
実(じつ)は
松原銅山で働(はたら)く当時のシマッチュは、モーレツに働いて稼(かせ)ぎまくるような精神性(せいしんせい)でなかったので仕事(しごと)にならず、鉱夫(こうふ)はどうしても内地(ないち)から雇(やと)わにゃならなかった・・ という事情(じじょう)もありました。 経営者(けいえいしゃ)の徳三和豊(とく・みわとよ)はシマッチュですから、シマッチュを冷遇(れいぐう)する理由(りゆう)はなく、苦渋(くじゅう)の選択(せんたく)だったでしょう。
さらに
内地からやってきた鉱夫はカネをバリバリ稼いで、豊(ゆた)かに生活(せいかつ)しようとしますが、布団(ふとん)をはじめ、内地(ないち)ではアタリマエの品(しな)も流通(りゅうつう)していなかったし、鉱脈(こうみゃく)も貧弱(ひんじゃく)だったので利益(りえき)が上(あ)がらず、コメの支給(しきゅう)や給料(きゅうりょう)が滞(とどこお)ったそうです。 そうしたことが重(かさ)なって鉱夫たちがブチキレ、なんべんも暴動(ぼうどう)を起(お)こしてしまった。 反面(はんめん)、シマッチュは農業(のうぎょう)よりずっと給料がもらえるから御(おん)の字(じ)で、たぶん鉱夫たちがブチキレた理由(りゆう)は、いまひとつ理解(りかい)できなかったでしょうし、暴力沙汰(ぼうりょくざた)には参加(さんか)してないのです。 このあたりの温度差(おんどさ)には、大切(たいせつ)な背景があったと思うのです。
はたまた
シマッチュの女子(じょし)が活躍(かつやく)したらしい選鉱(せんこう)≒鉱石(こうせき)かどうか選別(せんべつ)する作業(さぎょう)では、資金不足(しきんぶそく)から必要(ひつよう)とされる特殊(とくしゅ)な液体(えきたい)なども用(もち)いることができずに、見(み)た目(め)やニオイで判断(はんだん)していたそうで・・ それをイラストにしたかったんですが、紙面(しめん)が足(た)りなかった。 描(えが)くために当時(とうじ)のファッションも、調(しら)べたりしたんですが。 奄美(あまみ)にとって暗黒(あんこく)の時代だったのか記録(きろく)はなくて、かろうじて沖縄(おきなわ)の女子の写真(しゃしん)がありまして・・ ヘアスタイルや着物(きもの)は琉装(りゅうそう)と和装(わそう)をスキズキでまとっていたそうです。 江戸時代には、幕府(ばくふ)によって琉球(りゅうきゅう)や奄美の人(ひと)らは琉人(りゅうじん)とされ、琉装しか許(ゆる)されませんでしたから、ささやかですがデモクラシーだったんでしょうね゛〜。
さてさて
つぎもオッサンの苦手(にがて)な歴史で・・ 西郷(さいごう)さんだから、すんごい悩(なや)ましい。